グアムの戦い(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、太平洋戦争におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。 グアム島はマリアナ諸島中の島で、大戦開始前にはアメリカの統治下にあったが1941年12月10日に日本軍の攻撃によって奪われていた。飛行場を有し、絶対国防圏内の要所であり、アメリカ軍の侵攻に伴い攻撃目標となることが予測されたため、1944年には陸軍の第29師団及び第49独立混成旅団が派遣された。アメリカ軍はこれを奪還すべく第77歩兵師団と第3海兵師団を派遣した。 アメリカ軍のサイパン島侵攻時にパラオへ出張中で、サイパン島へ帰れなくなっていた第31軍司令官・小畑英良中将は、グアムで指揮をとっていた。サイパン島の玉砕により第31軍司令部が壊滅すると、第31軍司令部はグアムで再編成され、サイパンで戦死した井桁敬治参謀長の後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役に当たっていた田村義冨少将が任命された。 アメリカ軍は先ず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B-29)による爆撃を行った。予定では6月18日には部隊を上陸させるはずであったが、高射砲及び巡洋艦から取り外した高角砲によって迫り来る航空機を執拗に攻撃したするなど日本軍側は頑強な抵抗を繰り返した。マリアナ沖海戦などによって計画は大幅に遅延したアメリカ側は7月21日には軍の上陸を開始している。日本軍はサイパン同様最初の数日間に攻撃を集約し、水際で侵攻を食い止めようとした。揚陸中のアメリカ軍に対し重火器等で激しい攻撃を加え、20両のLVT(水陸両用装軌車)を破壊したが、それでも物量に勝るアメリカ軍の侵攻を食い止めることはできなかった。 7月28日には師団長の高品彪中将が戦死。師団の指揮は小畑軍司令官が師団長代理として直卒したが、この戦いにおける組織的抵抗は収束した。それ以降も日本軍の残存部隊は抵抗を続けたものの、8月11日に小畑軍司令官と田村参謀長が自決、日本軍の組織的な抵抗は停止、アメリカ陸軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げた。それでも一部の生き残った兵士は抵抗を行う。アメリカは本島の飛行場を直ちに整備し、サイパン島等とともに日本本土への戦略爆撃の拠点とした。 なお、横井庄一伍長らFX の日本兵が終戦を知らずにジャングルに潜伏する。1人生き残った横井は1972年(昭和47年)にグァム島住民に発見。保護され、無事に帰国している。 グアムの戦い(ぐあむのたたかい、Battle of Guam 、日本側作戦名「G作戦」)は太平洋戦争初期における日本軍とアメリカ軍の戦い。 当初、日本軍はグアム島のアメリカ軍を過大評価しており、同時期に行われたウェーク島の戦いに参加した部隊は全て海軍に所属していたが、グアム島の攻略には陸軍部隊が参加することになっていた。日本軍がウェーク攻略について具体的な構想を打ち出したのは昭和16年に入ってからであったが、グアム攻略に関しては大正12年から計画されており、現地には海兵隊300に現地人の兵1500がいると予測していた。しかし、アメリカ側は日本の勢力圏に取り囲まれたグアムの防衛を不可能であるとして防衛予算をほとんど割り当てなかった。(後に資金提供と作業員の派遣が行われ飛行場と潜水艦基地建設が行われたが、作業がある程度進んでいたのは潜水艦基地だけだった。) それにグアムには日本軍の予想した兵力の半数の米軍もおらず、日本軍は上陸からたった1日でグアムを占領することができた。兵力の過剰投入は日本軍にとって初期情報戦の上での失敗であったが、これが大勢に影響を及ぼすことは無く実際、南海支隊がその後、転戦したラバウルでの南方作戦も無事に遂行された。 日本軍は、グアム島をマリアナ諸島におけるアメリカ軍の拠点のひとつであると考え、グアム島の攻略を重要視し、陸軍「南海支隊」と海軍「グアム島攻略部隊」・「グアム島攻略支援部隊」をグアム攻略に割り当てた。 日本軍はその大部分が11月下旬に小笠原諸島の母島に集合し、1941年(昭和16)12月8日の開戦同日に水上偵察機16機によるグアム島空襲を実施し、小型掃海艇「ペンギン」を撃沈した。当時、グアムには日本人が数十人住んでおり、全員が開戦と同時に逮捕監禁された。 翌9日も日本軍は空襲を実施した。同日午後11時、日本軍はグアム島の島影を視認した。そして10日午前0時、輸送船が大型発動艇(大発)を海におろす作業を開始した。南海支隊は3隊に分隊し、西岸(楠部支隊)、東岸(堀江支隊)、北岸(塚本支隊)から上陸することになっており海軍陸戦隊は塚本支隊と行動を共にした。 また、楠部支隊は午前4時25分に上陸を開始した。FX 取引 付近は珊瑚礁であったが、海岸部は比較的平坦で海岸付近は風波ともに穏やかであったため、人員の揚陸に支障は無く戦闘も無かった。塚本支隊は午前3時10分に上陸を開始し。海軍陸戦隊もほぼ同時に塚本支隊から5キロほど離れたFX に上陸した。 そして午前5時頃に米軍約80名と遭遇、約30分間の戦闘で米軍は死傷者約10名出したが日本軍陸戦隊は戦死者1名と少数の軽傷者で、グアム政庁を占領した。守備隊の司令官であったグアム総督マクミリン大佐は午前5時45分、他の地点にも日本軍が上陸しているとの知らせを聞き、これ以上の抵抗は自殺行為であり現地民に被害が及ぶことを防ぐため降伏した。この時マクミリン大佐以下150名が捕虜となった。 塚本支隊は上陸点から密林の中を前進、やがて道路に到達し、そこを進んでいるうちに自動車を保有する少数の米兵と遭遇し、戦闘となりこれを全滅させた。海軍の水上偵察機も偵察・空襲行動を実施して陸軍の作戦を援護した。他の部隊が順調に作戦を遂行する中、東岸への上陸を担当していた堀江支隊は兵員の揚陸に困難を極めていた。当時、東岸付近の海上は風速10〜12メートル、波高2〜3メートルという悪天候であったため、輸送船から大発をおろす作業中に3隻が破損し使用不能となった。それでもなんとか大発に乗り込んで陸地目指して行動を開始したが、上陸予定地が荒れていたため予定を変更し少し南に上陸地点を移動させたが、ここも波が高かったため、やむなく船を海岸に乗り上げさせるという形で上陸した。 この様な荒業を敢行したので、ここでも1隻が使用不能となっている。大発が何隻も壊れたせいで堀江支隊が戦闘に必要な最小兵力の揚陸を終了したのは戦闘のほとんど収束した午後3時のことであった。 グアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となった米兵はアメリカ人と原住民あわせて650名であった。その後、開戦時に拘束されていた在留日本人数十名を救出している。 日本軍に占領されるとグアム島は「大宮島」と改称され、3年後米軍に奪還されるまで日本軍の軍政下に置かれることとなった。また南海支隊はラバウルに転戦した。 日本は第一次世界大戦の結果、クェゼリン環礁を含むマーシャル諸島の委任統治を行っていた。 前年の1943年にアッツ、タラワ、マキンを相次いで失った日本軍は、次の米軍の攻撃目標は東部マーシャル諸島かマロエラップ島、ウオッゼ島のどれかであると予想していた。そのため、これらの島々の防衛充実に力を傾けており、クェゼリン環礁の防御は疎かであった。 クェゼリン守備隊は、海軍所属の第6根拠地隊付属陸戦隊と第61警備隊、陸軍所属の海上機動第1旅団機動第2大隊で構成されていた。守備隊司令官秋山門造海軍少将は、タラワ戦の教訓から海岸の内側にトーチカや戦車壕を構築するよう命令したが、島の地盤は珊瑚礁のため地下陣地を構築できず、椰子の木で掩蔽壕を構築するのがやっとの状況であった。 一方米軍は、ニミッツ提督が日本側の予想を裏切り、防御の厚い島は無視して防御の薄いクェゼリン島のみを攻撃目標とするいわゆる「飛び石攻撃」作戦を立案し、スプルーアンス提督は艦隊泊地と飛行場の確保のためメジュロ環礁を占領することを条件にこれを承認した。